国指定史跡【苗木城跡】山城部門第1位のおすすめスポット
苗木城跡
苗木城は、岐阜県中津川市苗木にある山城で、別名霞ヶ城とも呼ばれています。
1532年頃に遠山直廉(とおやまなおかど)によって築城されました。
遠山直廉は、岩村城主・遠山景友の次男で織田信長の妹を正室としています。
苗木城は、1981年(昭和56年)に国の史跡に指定され、2017年には「続・日本100名城」に選定されています。
自然の巨岩を活用して築かれた山城で、一万石の規模ながら天守を構えた珍しい城として知られています。
日本の城ベストランキング「山城」部門で一位を獲得した人気の城で、「岐阜のマチュピチュ」「天空の城」などの異名を持ちます。
風吹門
風吹門の柱と門扉は残存する唯一の門として資料館に保管されています。
北門
城の外郭にあった土塀付きの門で、門番はいませんでした。城の入り口にある風吹門から見て、北側にあたる門であることから、その名前がついています。
北門の脇にある池は、雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていました。
大矢倉
石垣を高く築きたて、3階建てで、苗木城で最も大きな櫓でした。
1階は3方を石垣で囲われ、倉庫として使われていました。2階、3階の壁には矢狭間が設けられており北側の防御の役割がありました。
大門
一番大きな大門は、2階建てで、三ノ丸と二ノ丸とを仕切っていました。
領主の江戸参勤の出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は潜り戸を通行していました。
駈門
綿蔵門
本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。
坂下門
礎石と手前の石段が、現在でも状態よく残されています。
別名を久世門といい、これは三代領主友貞の奥方の実家で苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家、久世家の名からきているといわれています。
菱櫓門
本丸口門
本丸と二ノ丸の境となるもんで、総けやきで建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。
千石井戸
苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。
武器庫・具足蔵
鉄砲や弓などの武器類が納められていました。
一部の土台が崩壊しているものの、現在でも礎石や縁石が往時のまま残されています。
玄関口門
玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道でした。
通常は鍵がかけられていて、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していました。
本丸玄関跡
天守台より一段低い位置にありました。玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に書かれています。整備前の調査でも多くの玉石が確認され、その玉石を利用して復元されました。
玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩から外へはみ出す形で建物が建てられていました。
天守建物
苗木城の天守は2つの巨岩にまたがる形で作られ、三層となっていました。
2階の部分は巨岩の上にあり、現在設けられている木造構造物は、2階部分の床面を想定し復元したもので岩の柱穴は当時の物を利用しています。
天守閣展望台
恵那山は木曽山脈(中央アルプス)の最南端に位置する標高2191mの山。日本100名山に選定されている。
木曽川は長野県木曽郡木祖村鉢盛山から中山道に沿って岐阜県・愛知県・三重県を経て伊勢湾にそそぐ一級河川。
馬洗岩
かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いたことが名前の由来となっています。
笠置矢倉
3層の懸造りで巨岩の上に建てられていました。ここからの眺望はよく笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」と呼ばれています。
~まとめ~
苗木城は苗木遠山氏によって築城されました。
遠山氏は織田氏・武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げますが、本能寺の変の後、森氏に城を追われます。徳川氏に身を寄せ、関ケ原の戦い前に家康の指示で苗木城を取り戻しました。
この功績により苗木領1万521石の大名となり、明治4年の廃城に至るまで約270年、12代にわたり遠山氏が治めました。
狭い山頂の土地に巨岩を利用して積まれた石垣が特徴的で、苔むした廃墟感漂う雰囲気が「岐阜のマチュピチュ」と評されるほどです。
現在は天守跡に展望台が設けられ、恵那山や木曽川をはじめ中津川市街のスケールの大きな景色を360度見渡すことができます。
天守閣や堀なども見ごたえがありますが、当時の石垣が残る「天空の城」苗木城にも一度訪れてみてはいかがでしょうか。
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