新潟県【春日山城】日本100名城
日本100名城 春日山城
1931年(昭和10年)主城周辺が国の史跡に指定される。
2006年(平成18年)日本100名城に選定される。
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、為影・謙信・景勝の三代にわたり普請に努め、現在見られる大城郭になった。
複雑な自然の地形を巧みに利用した春日山城の堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城と言われました。
現在も空堀や土塁、大井戸など山城の特徴が残ります。
上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は政治を取り仕切るに不便として直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えます。
頂上付近に毘沙門堂が見えます。
三ノ丸
三ノ丸は米蔵などがあり、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられている。
米蔵跡
奥には土塁が見られる。
土塁
春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁は防御の役割を果たしていた。
上杉三郎屋敷跡
始めは北条三郎と名乗ったと推定される。
上杉氏と北条氏の同盟締結の際に上杉謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられるなど破格の待遇を受けていました。
謙信公の死後、跡目を争った「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げます。
二の丸
本丸の直下にあり、本丸を帯状に囲っている様子は、本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。
古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っている。
本丸跡
天守台
春日山城の天守台からは石垣、瓦も発掘されていないため、天守閣はなかったと考えられています。
天守台・本丸からの眺め。
景勝屋敷跡
景勝は、上田長尾家出身で初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父、上杉謙信の養子となり名を上杉景勝と改めた。
実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った「御館の乱」で上杉景虎に勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。
豊臣秀吉に「傾奇御免状」を与えられた前田慶次が「私の主は上杉景勝ただ一人だ」と言わせるほどの武将です。
豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の一人として会津藩120万石を領した。
関ケ原の戦いでは、石田三成ら西軍につき敗北。上杉家の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。
柿崎屋敷跡
柿崎景家は、長尾為景に仕え、為景死後はその子晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争った時には、景虎を支持している。
謙信の下では先手組300騎の大将として重要され、春日山城の留守居役を務めている。
謙信からの信頼は絶大で謙信の関東菅領職の就任式の際には斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた。
柿崎屋敷跡は、春日山城で最も大きな郭の一つ。
場内で唯一ハンノキが自生する場所で、植生から水分を多量に含む土地であり、ここに池もしくは水堀があったことが考えられる。
池であったとすれば、春日山城で唯一庭園を併せ持った郭の景観が想像される。
大井戸
廃城後400年の星霜を経て、今なお水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古地図にも井戸があることをしめしており古くから注目されていたことがわかる。
護摩堂跡
謙信公が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。
毘沙門堂
毘沙門天は悪魔を降ろす神であり、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、「毘」の旗を陣頭にかざし、またことある時はこの堂前で諸将に誓いを立てさせた。
直江屋敷跡
直江家は上杉謙信公の父、為影の代から重臣として仕え、山城守兼続は景勝の家老として活躍。
景勝が会津へ国替えになった時に同行し、米沢藩三十万石の城主になった。
千貫門
空堀
千貫門の内側に連続する2本の堀が作られており、門の位置からは道のように見える。
空堀は通常尾根を分断するように造られるが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われる。
謙信公銅像
謙信は、その戦績から後世「軍神」「越後の龍」などと称された。
越後国を統一したほか、武田信玄との「川中島の戦い」北条氏との「小田原城の戦い」など、関東や北信・北陸地方に度々出兵した。
春日山神社
明治34年に童話作家・小川未明の父、小川澄晴によって創建されました。
春日山神社記念館には、謙信公の遺品・資料などが展示されています。
~まとめ~
春日山城は2km四方の広大な自然の地形を利用した、難攻不落の山城。
数々の戦の拠点となった春日山城、現在も大井戸や土塁が残り、当時の生活の一部が垣間見えます。
謙信公や景勝公・優秀な家臣たちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
日本100名城スタンプは春日山城跡ものがたり館にあります。
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